まえ
地域の人びとに届けてきた、江戸小噺と笑い
「お姉さん、粋だね〜」「かえりです」
「この帽子はどいつんだ?」「おらんだ。でもいらん」
ある週末の午後、東京都三鷹市の住宅街に立つこぢんまりとしたカフェで催された「江戸小噺茶論(えどこばなしさろん)」。落語のまくらとして用いられることで知られる、くすっと笑える気の利いた「小噺」を聞き、話し、皆が自由に江戸談義を楽しめる会です。催しには、高座名を持つ小噺歴の長いメンバーによる語りあり、配布された簡単な小噺を皆で音読してみる体験タイムあり。とりわけ場が温まったのは、冒頭に紹介した江戸小噺かるたの場面でした。「一分(いちぶ)線香即席噺」と呼ばれる非常に短い小噺の、上の句、下の句の札を取り合うゲームで、高齢者が多数を占める会場のあちこちからは楽しげな歓声が。江戸中期の庶民に愛されたという小噺が、人の間を取り持ったようなひとときでした。
※「江戸小噺茶論」でのプログラムは回によって異なります。
2024年にスタートした「江戸小噺茶論」は、「江戸」を軸とした学び合いの会。写真は小噺に挑戦する参加者(上)と、かるた取り(下)
この会を主催した「一般社団法人 江戸小噺つながりコーチング」は、2013年、代表の高野まゆみさんが、「江戸小噺ボランティア養成講座」(みたかボランティアセンター主催)第一期生の有志とともに、非営利の活動団体「江戸小噺笑い広げ鯛」(以下、「広げ鯛」)として立ち上げた組織です(2021年に法人化し、改称)。高野さんの本職は、真心のような見えない思いをつなぐ「コーチング」というコミュニケーション手法の講師で、2002年より、主に子育て中の親に向けた研修などをおこなっていました。そのなかで、江戸時代の社会や文化、とりわけ江戸小噺に、コミュニケーションの観点で関心を抱くようになったといいます。
「コーチングという手法は、25年ほど前に日本に入ってきて、企業研修などに使われてきました。一方で日本全体を見ると、コミュニケーションの状況がまったくよくなっていないのでは? という疑問があって、江戸時代にヒントがあるのではないかと思い、調べ始めたんです。日常のなかで、小噺のような場を温めるものを楽しんでいた江戸時代のコミュニケーションは、いまと比べて大らかで、思いやりが感じられます。それは、互いの根底を認め合い、どんな自己表現も受けとめるコーチングにも通じるものだと思いました」
すべてが評価にさらされ、人びとが気持ちを押し込めるようにして生きるこの社会で、江戸小噺を広めることができれば、きっと皆が幸せになれると確信していたという高野さん。まずは自身が小噺を話せるようになろうと、落語家・桂右團治さんの教室に足を運んで3年ほど学んだのち、2012年、三鷹市で江戸小噺を楽しむ会を個人として開催。翌2013年には、みたかボランティアセンターに自ら働きかけ、「江戸小噺ボランティア養成講座」を開催したのです。好評を博したこの講座から生まれた「広げ鯛」は、以後、地域の高齢者施設や小中学校などへの出張ボランティアを中心に、行政関連のイベントへの出演、地域寄席の開催といった活動をとおして、江戸小噺と笑いの輪を広げてきました。その過程では、定期的に訪問していたあるデイサービスで、車椅子に乗った80歳近い女性がノートに自作の小噺を書きためるようになり、皆の前で小噺のお披露目をした……というような小さな喜びにいくつも出会ってきたそう。
ところが、始動から7年となる2020年、「広げ鯛」の活動は、新型コロナウイルス感染症パンデミックによってすべて休止する事態に。団体メンバーの多くが高齢者という事情もあり、活動継続へのエネルギーの維持が難しくなっていったといいます。この苦況に立った高野さんと主要メンバーが決断したのは、むしろこれを機に、江戸小噺のさらなる普及と次世代への継承を目標として掲げ、法人化を目指すという針路でした。従来の地域ボランティアは継続しつつ、江戸小噺を日常のなかで活用できる人材の育成に、事業として取り組もうと考えたのです。対面活動への障壁の高いコロナ禍のさなかだったからこそ、若い世代へのアプローチとして、苦手なオンラインでの活動にも挑戦。「東京ホームタウンプロジェクト」プロボノ支援プログラムに参加したのは、こうした新たな試みに着手しはじめたころのことでした。