アメリカ・ニューヨーク出身。通訳としてアメリカの映画会社に勤務し、パールバック(小説「大地」の作者)の通訳として日本中を巡ったほか、「黒船」、「サヨナラ」、「八十日間世界一周」といった映画の通訳に携わり、ジョン・ウェインやマーロン・ブランド、山村聰といった俳優とも仕事をしたことがある。また、昔からチャリティ活動に積極的に取り組んでいた。
現在は娘と一緒に住んでいるほか、近所に孫夫婦と曾孫、親戚が住んでおり、たくさんの人に囲まれながら、健康に過ごしている。
東京まちかど通信
VOL.23
地域のお元気さん
お元気なシニアをクローズアップ!健康の秘訣や趣味などをご紹介します。
今年度、100歳を迎えられるお元気な方4名を取材しました!
上條 千鶴子(かみじょう ちずこ)さん
(満99歳※ 太田区在住)※11月1日現在
〈プロフィール〉
──趣味や日課は何ですか。
昔の写真や、孫・曾孫の写真を見ること。昔の写真の話を見ながら思い出話をすることがあります。
元気で生きることが何より大事と思って暮らしています。
──普段の食事について教えてください。
お肉が大好きで毎日食べています。またチョコやクッキーなどの甘いものが大好きで、おやつは食べたいと思ったとき、好きな時に食べることにしています。
──パールバック氏と日本中を回ったとのことですが、氏はどのような方でしたか。
1960年に来日した時に一緒に仕事をしました。きちんとした人でした。また、私が「体調が悪い」と言った時、パールバック氏から、「妊娠しているのではないか」と言われ、病院に行ってみたら、本当に妊娠が発覚したということがありました。 それくらい一緒に行動して、日本各地を回りました。細やかな気遣いができる方でした。
──チャリティを行ってきたとのことですが、具体的にどのようなことをされていたのでしょうか。
通訳としてメキシコ大使夫人に同行し、施設を巡って困っている人に不足する物資やお金を送り届けるということを行っていました。 また、シンガポール大使館で裁縫や編み物で干支の置物などの小物を作り、バザーに出すということを行っていました。 数年前まで活動していましたが、コロナ禍になってできなくなってしまいました。
──今後挑戦してみたいことはありますか。
生まれ故郷であるニューヨークにもう一度行きたいです。 何年か前に行く予定でしたが、コロナ禍で中止になってしまいました。 ニューヨークは良いところで思い出がいっぱいあります。
古嵜 滋(こざき しげる)さん
(満99歳※ 渋谷区在住)※11月1日現在
〈プロフィール〉
滋賀県大津市の出身。昭和38年にユニーク化学工業株式会社(現ユニーク株式会社)を設立し、陶磁器タイル用接着剤を開発・製造してきた。現在も最高技術顧問として意見を求められるほか、最近は「引き抜けないアンカー」の研究開発に力を入れている。
──元気の秘訣・健康上気を付けていることはありますか。
以前は夜、布団から足が出ていて夜中に攣って痛くて困ったことが多々ありましたが、要支援制度で来ていただいた理学療法士の先生からリンパ液の流れをよくするマッサージを教えていただいてからは、一度も攣らなくなりました。足以外、首、肩、腰と自分でもマッサージでもみほぐしています。 また、毎日牛乳やヨーグルト、ビフィズス菌錠剤を摂ることで、便の硬さをコントロールしています。 これらの方法を全国の高齢者に知ってもらいたいと考えています。
──普段の食事やお好きな食べ物について教えてください。
食事は娘が毎日作ってくれています。 好きな食べ物は特にありませんが、毎日食事にトマトや果物を付けて、栄養面まで考えて用意してくれます。
──趣味や日課は何ですか。
特に趣味はありませんが、今も研究開発を続けています。 筋力が日増しに弱ってくるのを感じるので、毎日部屋の中を2,000~3,000歩歩いています。
──引き抜けないアンカーの研究開発をしているとのことですが、具体的にどのようなものなのでしょうか。
13年前に起こった笹子トンネル天井崩落事故に触発されて研究を始めました。 笹子トンネルにはドイツの技術が用いられており、アメリカのボストン高速道路トンネルでも同様にアンカーが浮き上がっている写真を見ました。 そこで、引き抜けず、無理に引っ張ればアンカー筋が切れる、100%信頼できるアンカーの研究を始めました。 以来12年間、改良に改良を重ね、やっとゴールにたどり着いたと考えています。 これからは世のため人のため、引き抜けないアンカーを世界中に普及させていきたいと考えています。
渋沢 雅英(しぶさわ まさひで)さん
(満99歳※ 港区在住)※11月1日現在
〈プロフィール〉
イギリス・ロンドンの出身。渋沢栄一の曾孫で、渋沢家現当主。 商社に勤務の後、財団法人MRAハウス代表理事、学校法人東京女学館の館長、財団法人渋沢栄一記念財団の理事長等を歴任。 渋沢栄一に関する書籍を数多く執筆しているほか、渋沢栄一の残した手記をデジタル化するなどの事業を実施。
──元気の秘訣・健康上気を付けていることはありますか。
以前はよく歩いており、三田から品川まで徒歩で行っていたほか、山登りをしており、南アルプスに登っていたりしたことが、今の健康の秘訣ではないかと思います。 おかげで今も歯は全部自分のものだし、耳も補聴器などは使っていません。
──普段の食事について教えてください。
ほぼ毎日、娘が作ってくれた夕食を食べています。 食べ物については、肉、魚、野菜何でも好きですが、和食より洋食の方が好きです。 また、毎日1,2杯ワインを飲んでいます。
──国際的な活動や教育的な活動に携わっているとお伺いしたのですが、具体的にどのような活動をされているのでしょうか。
終戦後商社に就職し、ロンドンに駐在していた際にMRA(※道徳再武装)に出会ってからは、平和活動として世界各国を回ったり、本を書いたりしていました。 また、渋沢栄一も設立に関わった東京女学館の館長を10年ぐらい務めていました。 時代的に女性の活躍が難しかったため、世界で女性が活躍する姿に接することができるよう、夏休みの旅行をアメリカや東南アジアの国にするなど、国際化を進めるため努力をしました。
──生前の渋沢栄一氏とお会いしたことがあると伺ったのですが、氏はどのような方でしたか。
会ったのは6歳のときだったのであまり良く覚えていません。何となく偉い人なんだくらいの認識でした。
──渋沢栄一氏が新1万円札の肖像に選ばれたことについてお気持ちを伺えますか。
4,5年前に財務省の人が来て、渋沢栄一をお札の肖像にするという話しがあり、そのときはどうぞどうぞという感じでした。
──若い世代へ伝えたいことはありますか。
日本には世界のために果たすべき役割があると思っています。 日本は他国とけんかもしないし、経済力もあるため、やろうと思えば色々なごとができるはずです。 日本が良い意味でリーダーシップを取れれば、それが一番幸せになると思います。
吉澤 浪子(よしざわ なみこ)さん
(満99歳※ 中野区在住)※11月1日現在
〈プロフィール〉
神奈川県小田原市の生まれ。8人兄弟の4番目。実家は和菓子店を営んでいた。 昭和33年5月に中野区に越してきて、夫と総菜屋・天ぷら屋を開業した。なお、店はその後鮮魚店に鞍替えした。 自身は地域の子供会や町会長、PTA会長、民生委員の推薦委員長を務めていたほか、保護司を33年務めており、その功績が認められ、勲五等瑞宝章を授与された。
──体調はいかがですか。
健康です。大きな病気はしたことがありません。 唯一あるとしたら、以前ボランティアで奥多摩方面の登山の引率をした際に崖から落ちて骨折したことがありますが、今は完治して特に問題はありません。
──趣味や日課は何ですか。
植物を育てるのが好きで、植木に水や栄養を与えるのが日課となっています。また、和歌や俳句、川柳が好きで、シルバー川柳を作っては時折投稿しています。
──普段の食事について教えてください。
食事は朝と夜の2回で、毎食自分で作っています。また、間に間食をしています。果物が好きで、トマトも1日3回食べています。ほかには、食パンや豚バラのほか、酢の物が大好きですが、ブロッコリーと魚は苦手です。鮮魚店をやっていましたが、魚は鮭のカマぐらいしか好きではありません。
──保護司として活動されていて、嬉しかったことなどはありますか。
「おばさん」と呼ばれて慕われたり、更生して結婚の報告に来たときは嬉しかったですね。結婚の報告を受けたときには、お祝いに鯛をあげたりしていました。
──長生きしてよかったと思うのはどのような時ですか。
曾孫が9人おり、「ちゃーちゃん」と呼んでくれるときですね。
──今後挑戦してみたいことはありますか。
美味しいものを自分で作って食べたいです。今後も健康に気を付け、毎日を楽しく、迷惑がかからないよう生きていきたいと思います。
(公開:2024年11月14日)